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特集  奈良県誕生物語

 [引用文献:奈良県発行 青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語− より抜粋


     東大寺大仏殿と興福寺五重塔

序 章  青山四方にめぐれる国

第1章  夜明けを迎えて

第2章  文明開化のあしおと

第3章  堺県のもとで

     すすむ府県統廃合

     明治天皇の大和行幸

     奈良公園

     伝統を受けついで

     町村の自治に向けて

     大和の自由民権運動

第4章  苦闘の再設置運動

第5章  奈良県の誕生

終 章  それから100年


第3章  堺県のもとで

すすむ府県統廃合

堺県との合併


 明治9年4月18日、奈良県が廃止されて、生駒・葛城・金剛の山並みを越えた向こうの堺県に組み入れられた。これは政府の大幅な府県の統廃合の方針にもとづくもので、この年、全国は北海道開拓使と3府35県にまとめられた。堺県は、河内・和泉・大和の3国を管轄することになった。県令は鹿児島出身の税所篤である。税所は当時48歳。河内県知事・兵庫県権知事・堺県知事を歴任し、明治4年暮れ以後あらためて堺県令をつとめてきた。のち同20年に奈良県が再設置されたとき、初代の奈良県知事に迎えられた人物である。

 奈良県の廃止で、土地や戸籍・租税・会計事務などが堺県に引き渡された。大和には、堺県の出張所が奈良大豆山町の第1会議所に置かれたが、そののち旧奈良県庁舎に移され、庶務や警保の事務を受け持つことになった。しかし、新しい願いや届け・民事訴訟などは、わざわざ堺の県庁まで出向かねばならなくなったので、大和の住民にとっては大変不便なことであった。その後、堺県の出張所は旧興福寺の金堂に移された。

・まぼろしの誉田県

 奈良県を合併した堺県は、治める範囲がずいぶん広くなった。ところが、県庁は堺の地にあるので全管内の西にかたより過ぎていること、また、大和国は全体的に山国で村落が散在し、道路も未整備な所が多く運輸の状況も困難であること、大和南部の村むらは堺の県庁から遠く離れていて、布達などは遅れがちになるし、人びとの往復にも多額の費用がかかるなどの事情が懸念された。

 そこで堺県は、県庁を今の羽曳野市内にあたる河内国古市郡誉田村に移そうと計画した。同地の誉田神社のあたりはかなりのあき地もあり、道路事情も良く、水運にも便利だと考えたからである。ここに県庁を新築し、県名も誉田県と改称したいとの願書を、奈良県合併直後の明治9年4月29日に三条実美太政大臣あてに提出している。新しく建てる県庁は、美しく飾ることは避けて質素実用を第一に考えており、また、費用は特別に政府に支出を依頼するとか人民から徴収するのではなく、これまでに県が積み立ててきた貯蓄金をあてる手はずになっていることも願書にはしるされていた。しかし、翌5月10日には大久保利通内務卿の名で承認できない旨の指令が出され、県庁の新築移転と県名の改称は実現しないままに終わった。

・さびれゆく奈良の町

 さて、堺県の出張所が置かれているとはいうものの、県庁を失った奈良の町は活気をなくしてさびれはじめた。県庁への用事のある人を泊めた宿も、客が少なくなって営業をつづけることが困難になったので、奈良の町に見切りをつけて堺に移ることが多かったなどと「郵便報知新聞」は伝えている。町屋の取りこわしも毎日のようにおこなわれたという。奈良今小路町の旅館対山楼の主人は、明治11年ごろのようすを、「雲井坂から手貝通りを見渡したところ、火影はただわが家の旅館の門灯だけで、そのほかはまっ暗だった」と語り、人影が消え、雑草が生い茂る京街道のさびれようを嘆いたと伝えられている。

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明治天皇の大和行幸

・その背景

 たびたびの巡幸で全国をくまなく巡ったことで知られる明治天皇が、この大和の地にはじめて足を踏み入れたのは、明治10年2月のことである。前の年には東北から函館に至る大巡幸を終えたばかりで、今回は、畝傍陵参拝がそのおもな目的であった。わずか5日間の滞在とはいえ、大和の人びとにとって、それは大きなできごとであった。満24歳の天皇に対する期待も大きかった。このころ、世のなかは騒然としていた。
 明治9年10月から11月にかけて熊本・福岡・山口では政府に不満を持つ士族の反乱があいつぎ、さらに茨城・三重などで地租改正に反対する農民一揆がおこった。年末には、その地租改正の発案者である大久保利通内務卿が自ら地租の減額を提案しなければならないほど、政府に対する風あたりが強くなっていた。しかも、年明け早々1月30日には西郷隆盛を信奉する若者たちが鹿児島で挙兵し、ここに西南戦争が勃発する。明治政府が直面した最初にして最大の危機、西南戦争のさなか、わざわざ2月11日の紀元節にあわせておこなわれた畝傍陵参拝は、天皇の存在を強くアピールすることにより、その危機を乗り越えようとする政府の意図の表れであったといえるだろう。

・東京を出発

 さて、行幸の長い行列が東京を出発したのは明治10年1月24日のことである。天皇のお供をする供奉員には、三条実美太政大臣をはじめ木戸孝允・伊藤博文・山形有朋らを含むおよそ150人の人びとが選ばれ、そのうち皇族の有栖川宮・山階宮両親王や松平慶永ら5人の華族が先発の役目を引き受けた。天皇の一行を乗せた高雄丸は強い北風に悩まされながら、途中鳥羽港に立ち寄り、1月28日、無事神戸港に着いた。神戸停車場から開通したばかりの汽車で京都に入り、翌々30日には東山の孝明天皇陵に参拝し、そののちしばらく京都での滞在がつづいた。

・準備をめぐる大騒ぎ

 一方、明治9年11月に出された行幸に関する布告は堺県庁を通じて伝えられ、さっそく準備がはじまった。しかし、行幸当日までに残された日数は少なく、それこそ大騒ぎであった。まず行在所や小休所の準備がすすめられた。行幸が決まると、宮内省から役人がやってきて調度類や寝具・食糧品・灯火暖房具などの調達についてつぎつぎと指示をしたが、御座所のテーブルは檜か杉の白木で新調することが条件というようなものもあり、指示どおりにそろえるのは大変なことだった。さらに、数十か所にのぼる供奉員などの宿泊所についても綿密な打ちあわせが重ねられた。奈良の町では絹布団の調達に苦労したという。このころ景気は良くなく、前年の日照りによる不作もたたって、絹布団を持つような余裕のある家は少なかった。木戸孝允は、今井の町で宿泊したとき、宿舎の亭主から木綿業の不振について聞いた話をその日誌にしるしている。
 道路の整備も大きな問題だった。なかでも京都と奈良をつなぐ京街道は道幅が狭く、また木津川渡船の不便さもあって、いったん使用が見送られそうになったのだが、ぜひとも通ってもらいたいと願った木津など街道沿いの町村では、延べ10万人をこえる人びとを動員して道幅を広げたり橋の修繕にあたり、行幸当日までに工事を完了した。添上郡横田村や葛下郡下田村・藤井村などでは行幸のために新しい道をもうけたりしている。
 そのほか、堺県が最も恐れたのが天皇に対する「不敬ノ挙動」で、神官や僧侶を通じてきめ細かい指導が繰り返しなされた。そのなかには、戸障子のすきまや窓・屋根からのぞくな、寒いからといってほおかぶりや首巻をして迎えの列に加わってはいけないなどといった注意があった。もっとも、拝礼の仕方についてはいろいろ議論があったようで、堺県の布達を見ると、天皇を迎えるときは立ったままで良いのか、土下座すれば良いのかで最後まで混乱しているようすがうかがえる。テレビやラジオどころか、写真さえもまだまだ一般化していないこの時代、「天子様」というのはうわさでしか聞くことのできない存在であり、姿を見たらとんでもないことになると信じて疑わない人も少なくなかった。こうした準備には多くの費用がかかったが、国と県と地元で分担することになっていた

・いよいよ大和へ

 明治10年2月7日、いよいよ京都を出発。体調のすぐれない三条実美と、西南戦争の情報収集やその処理に忙しい伊藤博文・山形有朋は京都に残った。一行は宇治で一泊し、玉水・木津を経て、8日の夕方小雨けむる奈良に到着した。行列は奈良阪から転害門の前を通ってまっすぐ南下していく。押上町の西大門跡から春日神社一の鳥居にかけて、師範学校の生徒、学校名をしるした名札を胸につけた小学生、奈良の町民や春日神社の神官などがぎっしりとならんで出迎えた。小雨のなか土下座したまま動かない人の姿もあった。区長・戸長などのなかには苦労して手に入れた燕尾服を着用し、出迎えの列に加わった人もあった。道の狭い所は少しでも広くするために道に面した家の軒先がすでに切り落としてある。道筋にあたる家々には葉の茂った青竹を立て、提灯をかかげたり、しめかざりをほどこすという念の入れようだった。

 馬車に乗った天皇と馬車や馬に分乗した供奉員。その人びとを数十人の近衛騎兵と警部が前後で護衛する。行列は春日参道から大仏通りを北上して行在所の東大寺東南院に入った。供奉員の宿舎には東大寺の塔頭や周辺の旧家があてられた。それぞれの宿舎と行在所をつなぐ道には、高張提灯がずらりとならべられた。提灯は行幸の道筋にも必要であったので提灯屋は繁盛し、一張り12銭5厘のものが2月に入ると約30銭にはねあがったという。
 翌9日、春日神社参拝。午後には、大仏殿回廊で奈良博覧会社の陳列品を見たあと金春流の能楽を鑑賞し、さらに正倉院では名高い香木「蘭奢待」の一片を切り取った。御用係として行在所の出入りを許された中村雅真の記録によれば、雅真の父中村尭円出品の香道具を用いてその「蘭奢待」をたいたという。同日、有栖川宮親王は椿井小学校で奈良・郡山・小泉から選ばれた生徒の授業を参観した。このとき、各生徒ひとりあたり50銭〜2円の書籍料が、椿井校には15円という多額の下賜金があった。

・畝傍陵参拝

 この間、西南戦争をめぐる情勢はますます混とんとしてきた。明治10年2月9日、山形有朋は三条実美の許可を得て、各鎮台司令長官に出征準備の内命をくだした。10日はふたたび小雨となったが、予定どおり出発。春日参道から辷坂を経て城戸通りを南下し、横田村・平群郡上之庄村で小休、さらに田原本の浄照寺で昼食をとり、今井の町に到着した。沿道はあいかわらず数えきれないほどの人びとがつめかけ、そのなかには礼服を着た十津川郷の人たち数十人の姿もあった。
 ところで小休所にはそれぞれの地域で最も財力のある旧家や社寺があてられた。そこには、有力者を通じて地方とのつながりを深め、天皇の存在を印象づけようとする政府の意図があった。行幸にさきだち、堺県は善行のあった者や80歳以上の老人の名簿の提出を求めているのもその表れだろう。今井町の行在所は称念寺であった。表門には菊の紋を染め抜いた紫色の幕がかけられ、御座所は金屏風に足元のケット(毛布)の赤色が映えてみごとだった。木戸孝允もその日記に「手こみしものばかり」としるしている。
 2月11日、儀仗兵1大隊560人に迎えられて畝傍陵参拝。午後、称念寺で国栖奏が披露され、さらに三輪そうめん製造の実演があった。

・大和を離れる

 こうて大和行幸の日程を終えた一行は、明治10年2月12日、はげしい吹雪のなかを出発し、初瀬街道から高田・下田・藤井を通って大和を離れた。この日、木戸孝允は病いに倒れ、単身京都に帰着。同日、東京の大久保利通に京都出張の命がくだっている。木戸のかつての盟友西郷隆盛は2月15日、ついに自ら立ちあがった。重病をおして大和行幸に供奉した木戸は、西郷のことを気に病みつつ5月に亡くなる。反乱の鎮圧に成功し、地租減額後の税制や地方制度の確立に情熱をかたむけた大久保も翌年暗殺された。

 明治政府が大きな転換期を迎えたこの時点で実施された大和行幸は意義深いものであった。

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奈良公園

・公園のなかに街がある

 近鉄奈良駅の改札口から地上に出て1、2分も歩けば、もうすでに奈良公園である。行楽のシーズンともなればごった返す観光客のなかで、ゆったりと草をはむ鹿の群れ。奈良に住む人にとってはなんでもない光景が、内外の観光客の目には実に新鮮に映るようだ。都市の近郊に広大な公園――というよりも緑豊かな公園のなかに街があり、ぴったりととけあって独特の雰囲気をかもし出している。そのため、あまりにも身近にありすぎて、では奈良公園の範囲はどこからどこまでかと聞かれても、とまどいを感じる人は多いかもしれない。

・万人偕楽の地

 すでに、古くから「古都奈良」とか「ふるさと奈良」という言葉が使われ、奈良は信仰の対象として、あるいは史跡・名勝・名所の宝庫として訪れる人が絶えることはなかった。しかし、明治維新は静かな奈良の地にも大きな影響をおよぼした。鳥羽・伏見の戦いのときには、官軍の兵士が社寺の境内を行きかったし、神仏分離の政策や社寺領上知令は、とくに興福寺に壊滅的な打撃をあたえ、その荒廃ぶりは目をおおうばかりであった。明治4年、太政官が公布した古器旧物保存方によって宝物調査が実施されたように、社寺の保護を願う声もたしかにあったが、興福寺が復興されるまでには、なお10年あまりの歳月を必要とした。
 さびれた奈良の復興のために、民間人で最も早く観光産業に関心を示し、かつ具体的に提言をしたのが金沢昇平である。かれは、「日新記聞」のなかで観光地奈良のありかたを提唱した。たとえば、第6号で奈良独得の案内人はどうあるべきかを論じたり、第10・11号では、「外国人旅行者を受け入れるためのホテルの建設や、興福寺などが荒廃するままにまかせて良いものか」という投書を掲載し、観光に対する人びとの関心を高めようとした。
 さて、こうしたなかで同6年1月、政府は「公園」の開設について太政官布告を発し、府県に対して「万人偕楽(多くの人とともに楽しむこと)の地」としての公園の候補地を選ぶように指示した。政府が認可し、管理には府県があたるとともに民間資本の導入を積極的に認める方針であった。5月にはさっそく東京府が浅草寺・寛永寺などを選び、公園の設立計画を提出している。金沢は「日新記聞」第19号でこの布告の趣旨におおいに賛同し、またとない機会の到来であることを強調した。同21号の記事によれば、このころしだいに観光客もふえ宿泊者も毎晩600〜700人をくだることはなかったという。同8年から開催された奈良博覧会も好評で、観光客の増加にひと役買った。公園の開設を要求する声は日ましに高まっていく。

・奈良復興のために

明治9年、奈良県が堺県に合併されると奈良の町は沈滞し、訪れる人も減ったが、翌10年12月、民間の有志14人が堺県に対して1通の願書を提出した。有志のなかには金沢昇平の名前も見える。願書の内容は、もと興福寺の境内外を向こう10か年間無償で拝借させてほしい、また、有志の手で花樹を植え、風景を整えて来客をふやしたいというものであった。事前に県側の指導があって出されたものと思われ、堺県は同11年1月、さっそくこれを認可し、有志に貸しつけた。その大部分はすでに官公有地となっていた所で、ここにはじめて奈良公園地が設定されたのである。ただし県予算の裏づけはまったくなく、整備といってもほとんど奉仕に近いものであった。

 有志14人は興立舎という組織をつくり、公園地維持のための費用を積み立てる一方で、名所旧跡案内人をその統制下に入れようとした。同年9月には案内会所の設置や案内者心得の制定を堺県に願い出ている。それによれば、案内人は市中各所に案内会所をもうけ、1、2人の組頭を置く。案内料は客の人数によってランクをつけ、5人以下の場合は1巡回につき金7銭、50人以上になると金25銭とする、などとなっていた。この案内料の経理には興立舎があたるのである。堺県は、興立舎に案内人の免許鑑札を交付する権利をあたえ、その監督を命じた。

・奈良公園の開設

 こうした有志の積極的な活動を見届けた堺県は、明治12年5月31日、内務省に公園地への地目の変更を上申した。伊藤博文内務卿の名で、奈良公園の開設が正式に認可されたのは翌13年2月14日のことである。認可された公園地の範囲は明治11年に有志が拝借した地域とほぼ重なるらしいが、はっきりしたことはわからない。また一方で、堺県は若草山の官林を名勝地とするよう内務省に上申した。これについては同14年に認可されている。公園の開設認可を受けた堺県は公園取締規則を制定し、公園の管理は庶務課および警保課の管轄とした。公園の経営は興立舎にゆだねたが、このとき金沢昇平は奈良公園取締に任じられている。こうして公園行政も本格的にはじまった。
 ところで明治10年代から20年代にかけて復古的な思想がおこり、古都奈良に対する関心も高まった。すでに、同11年2月には若草山の山焼きの復活があり、おおいに見物客を集めた。興福寺の復興も現実的な問題となり、堺県が大阪府へ合併した直後に再興が認可されたし、その翌年には南大門跡の芝地で薪能が催されている。同17年からはじまるフェノロサや岡倉天心の社寺調査も観光客増加の一因となった。大仏殿修造のための組織、大仏会が結成されたのもこのころのことである。

・公園地の大拡張

 奈良県の再設置後、初代知事の税所篤は公園行政にも力を入れ、春日山の大部分や大谷山・若草山などの官林、あるいは社寺境内地などを公園地に編入していった。明治22年、新しい奈良公園地の告示があり、公園地は506町歩あまりといっきょにそれまでの30数倍に拡張された。社寺の境内地や名勝地、それに山野を含む広大なものとなったのである。その広さは現在のものにほぼ近い。ここに、当時としては全国にも例を見ないスケールの大きな公園が誕生した。
 同24年、春日神社一の鳥居で鹿の角伐りの実施。翌25年、奈良〜大阪湊町間の大阪鉄道開通。同28年、帝国奈良博物館の開館。さらに同29年、奈良〜京都間に奈良鉄道の開通‥‥。観光客は増加の一途をたどった。民間の熱意がひとつのきっかけとなって開設された奈良公園は、その後、公園行政にたずさわる人びとの努力によって整備がつづけられ、緑豊かな都市公園として発展していくのである。今の奈良公園は、「奈良県立都市公園奈良公園」という正式名称を持っている。

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伝統を受けついで

・大和の伝統物産

 奈良県の特産品のなかには近年になって生まれたものもあるが、大和の歴史と地域的特性を反映して江戸時代以来の、あるいは中世、古代にまでさかのぼることのできる長い伝統を持つものも多い。たとえば、社寺を背景にした筆・墨・三宝神具や蚊帳、団扇、角細工、清酒、奈良漬、一刀彫で知られる奈良人形、奈良漆器、高山の茶せん、赤膚焼、郡山で盛んな金魚、三輪そうめん、大和売薬などがある。さらに吉野地方には和紙、割箸などがあり、また、吉野葛や吉野川の鮎などを使った食品が工夫され、冷涼な気候を利用した高野豆腐の生産が今もつづけられている。大和の自然と風土はこうした多くの特産品をはぐくんできた。

・筆と墨

 社寺を中心に栄えた大和では、古くから筆や墨がつくられ、江戸時代になると特産品として全国にその名が知られるようになった。社寺参拝のために大和を訪れた人びとが、みやげものとして求め各地に広めていったと思われる。明治になってペン・インクなど新しい筆記具が広まり筆・墨を押しのけるかに見えた。しかし習字が小学校の授業に取り入れられることによって新しい需要が生まれ、奈良筆・奈良墨に新たな発展の道が開かれることになった
 近代の奈良筆の発展に功績があったのは幕末に出た川勝亀蔵であった。川勝は筆づくりの名手といわれ、明治10年、東京の上野で開かれた第1回内国勧業博覧会に筆を出品し褒章を受け、弟子の育成にも熱心であった。明治20年代に入って奈良毫筆協和会が設立され、筆の製造・販売にたずさわる人びとの組織化がはじめておこなわれた。同25年には第1回全国毫筆品評会が奈良で開かれ、協和会の人びとが全国の筆づくりをリードしていった。
 また、奈良墨も古くから知られていた。江戸時代、松井元泰が長崎に出かけて唐墨を研究し墨の改良に努力した。このため、奈良墨の名声は全国に広まり、宝永年間には38軒の墨屋でにぎわったという。近代に入って明治13年、製墨業者44人は同業組合永香組をつくった。このころ新しく開業する者がふえ、粗悪品が目立ってきたため品質を保とうというねらいからであった。しかし効果は上がらず、同16年、奈良製墨業組合をつくってすべての製墨業者を加入させ、「8厘以下の安い墨は1挺ごとに黄唐紙でつつんだり、過分の着色をして高級品に似せてはならない」「砥粉や粘土をまぜた質の悪い墨の製造をしてはならない」など品質保持のきまりをもうけた。こうした努力の積み重ねのうえに奈良墨の伝統は引きつがれてきたのである。

・奈良人形と杜園

 奈良人形は平安時代末に春日若宮祭の田楽の用具の一部に用いたのがはじまりとされ、江戸時代には岡野家が制作を独占していたが、美術的価値を高めたのは森川杜園である。杜園は絵画の才能にすぐれ、年少のころ奈良奉行所の御用絵師となった。しかし、18歳のとき彫刻家に転身し、奈良人形の制作を手がけることになる。明治8年、第1次奈良博覧会大会に出展された正倉院の宝物に触れ、また当時奈良博覧会社がおこなった正倉院宝物の模造・模写事業に参加することによって杜園の技量は磨かれ、やがて独自の境地を築きあげていった。同20年前後、東京から竹内久一、加納鉄哉ら若い彫刻家が古美術研究のため奈良を訪れたが、このときかれらと交流を深めた杜園は近代的な写実主義を学び、やがてその手法を取り入れた傑作を生み出していくことになる。杜園は同27年に没するが、その業績はまことに大きく、奈良人形は杜園の名とともに全国に知られていった。

・赤膚焼

 西ノ京丘陵でつくられている赤膚焼は、天正13年9月、豊臣秀吉の弟秀長が郡山に入城したとき、尾張国から陶工をまねいて焼かせたことにはじまったといわれる。その後いったん衰退するが、江戸時代中期の郡山藩主で自ら尭山の号を持つ粋人であった柳沢保光はその再興をはかった。「赤膚」はこの保光によってつけられた名である。保光の死後ふたたび赤膚焼は衰えたが、幕末に出た奥田木白がこの沈滞を救った。
 赤膚焼のうわ薬の研究を積み重ね完成をめざした木白の努力は、明治中期、岡倉天心やフェノロサらによって日本の伝統美が再評価されるなかで脚光をあびるようになった。明治17年発行の「大和国名流誌」は、赤膚焼の陶工として山口甚次郎、古瀬治平、井上忠治郎の3人の名をあげている。木白の死後はこうした人びとが赤膚焼の伝統を受けつぎ、現在の隆盛へとつないできたのである。

・奈良漆器

 大和の工芸品のなかで奈良漆器の歴史は新しい。奈良漆器の名で知られるようになったのは明治20年代に入ってからである。第1次奈良博覧会大会に出品された正倉院宝物の精妙さに着目した奈良博覧会社では、県内の漆工、金工、木地師、彫刻家を集めて宝物の模造・模写事業をおこした。作家たちの技術を高め、伝統工芸品を販路に乗せて商工業の振興をはかろうというねらいからであった。明治21年、京都で開かれた関西府県連合共進会に漆工品を出品したところ好評を得ることができた。これに力を得た奈良博覧会社は同年温古社と名づけた工房を設置し、正倉院宝物をまねた漆工品を生産しはじめた。
 温古社の作品は、木地は檜の古材を用い、形態や模様、飾金具は正倉院宝物を模造し、そのうえ、漆塗りの段階で古色をつけたものであった。こうして生まれた製品は「奈良漆器」の名で売り出された。初期の作家には吉田立斎、弟の北村久斎、吉田包春らがおり、すぐれた技量で奈良漆器の名品を生み出し、今日の名声の基礎を築いた。

・郡山の金魚

 郡山の金魚は全国によく知られている。江戸時代末期に郡山藩士佐藤三左衛門が「ランチュウ」を、また文久年間岡町の高田屋嘉兵衛が「シシガシラ」を買い入れ、これらが刺激となって郡山藩の藩士の内職として金魚の養殖が広まったといわれる。明治維新以後、俸禄を失った旧藩士のあいだに金魚養殖を本業とする者も現れ、旧藩主柳沢保申の奨励もあってしだいに普及した。もと藩士小松春鱗は養殖法を指導するとともに品種改良に努め、郡山金魚の名声を高めた。はじめは京阪神から北陸方面へ行商に出かけた。明治20年代に入り鉄道網が整備されるとその販路はさらに広まった。明治7年、17万尾であった金魚生産は、同33年、117万尾に達し、同38年には3,841万尾へと成長していった。

・大和売薬

 大和の売薬は富山県とならんで名高い。古くから「陀邏尼助」「豊心丹」「真土膏」などが知られるが、これは薬草栽培が盛んだったためである。大和では18世紀ごろ御所を中心に売薬業が成立したといわれている。文政年間に畿内での行商がはじまり、各家庭をまわって薬を置き、半年から1年後に使用分の代価を集める、いわゆる配置売薬として発展していった。
 ところが文明開化の方針をとった明治政府は洋式医療を尊重し、売薬の良さを認めようとせず、明治16年からは印紙税をかけて圧迫を加えた。しかし、医院や薬局に遠い各地の農山村に需要が多く、政府の抑圧策にもかかわらず販路はしだいに広がった。御所とならんで高取周辺でも薬の製造販売が盛んになる。同27年、大和製薬会社が設立されて会社組織が生まれ、40年代に入ると生産工程に機械を導入する事業所も現れた。明治末期には紡績と肩をならべる奈良県の重要産業に成長している。同42年、政府はそれまでの売薬に対する方針をあらため、ついにその有効性を認めるに至った。

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町村の自治に向けて

・民権運動が高まるなかで

 府県によってその実施方法がまちまちであった大区・小区制が、全国的にほぼ統一された姿となるのは、明治8年に開かれた第1回地方官会議以降のことである。この地方官会議というのは、板垣退助らが議会の開設を求める建白書を政府にさしだしたことをきっかけにしてはじまった自由民権運動の高まりのなかで生まれたものであり、地方の長官をその議員として前後3回開催されている。大久保利通や大隈重信が中心となって発案し推進してきた地租改正の事業は、農民の猛烈な地租軽減要求によって、同11年1月に税率を地価の3パーセントから2.5パーセントに下げるとともに、今の地方税にあたる民費もその徴収額を地租の3分の1から5分の1以下にあらためるなど、軌道を修正しなければならなかった。当然のことながら、予定していた地租収入はいっきょに6分の1も減ったのである。このため大久保らの目は、財源確保のための新しい地方税の創設や、行政費軽減のための地方制度の整備に向きはじめた。
 一方で、板垣退助らが土佐で設立していた立志社という政治結社が、同年6月に国会開設の建白書を提出すると自由民権運動はふたたび活発化し、運動の主体もこれまでの士族からしだいに地方の有力者、すなわち豪農層へと移っていった。それはかれらが、自分たちの生活に直結する地租や民費に深い関心を持つようになっていたためであり、民権運動も国会開設要求とともに地租改正事業や地方行政制度への批判という形をとるようになっていった。そこで、地租改正の基本方針は維持しながらも、財政を安定させ、地方行政の見直しをはかるために、政府は翌11年7月22日、郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則をさだめた。これらを総称して「地方三新法」という。
 まず郡区町村編成法というのは、問題の多かった大区・小区制を廃止し、昔からの町村機能を復活させたうえで府県と町村のあいだに郡を置き、その郡に行政をおこなわせるようにした法律である。なお、市街地など特定の地域には別に区が置かれた。府県会規則とは、満20歳以上の男子で地租を5円以上納入している者に選挙権をあたえ、府会あるいは県会を開くことを認めたもので、やがて民権運動家はこの府県会を舞台に運動を発展させていく。ただし、府県会では議員による議案の提出は認められず、また議決事項にも府知事や県令の許可が必要とされるなど、制限が加えられていた。
 そして地方税規則は、国の負担をできるだけ軽くするために大久保らが最も力を入れたもので、これまでの府県税に地租付加税や営業税を新たに加え、さらに民費をも取りこんだ新地方税をつくろうとしたものである。一方、これとは別に新たに協議費を区や町村限りの費用として各町村に負担させたので、事実上の増税となった。

・大区・小区制ついに廃止

 さて、この地方三新法にもとづいて、明治12年2月20日、堺県は郡区編成のための調査を開始した。戸数や民情の動向、道路事情などを考慮しつつ調査がすすめられ、同年4月15日、堺県管内は1区9郡役所にまとめられることになった。数郡をあわせて1郡役所としたわけである。これにともなってまもなく大区・小区制は廃止された。同年5月1日には区役所・郡役所が開庁し、事務の取りあつかいをはじめている。大和では奈良・三輪・御所・五條の4箇所に郡役所が設置され、それぞれ各郡を管轄し、官選の郡長や書記が任命された。

・連合戸長役場が置かれる

 大区・小区制は消滅したが、そのまま町村の自治がすんなり認められたわけではなかった。また規模の小さい町村も多かったので、郡役所の管内ごとにいくつかの町村を連合させた組織をつくり、それぞれに連合戸長役場をもうけて、その代表となる戸長を投票で選ぶことになった。郡区町村編成法では、原則として各町村ごとに戸長を置くことになっていたが、数か町村をまとめて戸長を選出することも認められていたのである。選挙人および被選挙人は満20歳以上の男子で、土地や家屋などの不動産を所有する者、ただしすぐれた人材のいる場合は20歳以下の者を戸長に選ぶこともできた。なお、従来の副区長や副戸長はここで廃止されたが、町村の総代についてはそのままで、「住民の協議にまかせること」とし、郡役所にその氏名を届けさせた。
 大和の場合、奈良郡役所管内に10か所・三輪郡役所管内に6か所・御所および五條郡役所管内にそれぞれ7か所の連合戸長役場が設置された。役場には戸長のほか、用掛・筆生などと呼ばれる職員が雇われた。戸長は連合の規模により8〜20円、用掛・筆生は5円以下の月給を支給されたという。郡長は25〜80円、書記は10〜25円であった。もっとも役場とはいっても旧小区事務所や戸長の自宅があてられた場合が多かった。

・はじまる町や村の自治

 ところで、堺県に連合戸長役場のしくみが導入されたころ、すなわち明治13年4月、政府は区町村会法を公布した。これは区町村の公共に関することや、協議費の支出・徴収について審議する区会や町村会の設置を認めたもので、諸規則については実情に応じてそれぞれの区町村で具体化することになっていた。府知事や県令に議会の中止・解散を命じる権限があったにしても、ある程度の自治が許されることになったわけで、大和でも規則を制定したり、村会議員を選んだところもあり、いわゆる近代的な地方自治のさきがけとなった。
 こうして、県(県令)― 郡・区(郡・区長)― 連合町村(戸長)という形で地方制度の再編成は一応完成したのである。同年6月1日には府県会規則にもとづいて堺県会が開設され、議員定数は各郡役所ごとに4人と定められた。しかし、翌14年以降の松方財政の実施による深刻な不況が自由民権運動の激化をもたらすと、政府はふたたび方針の転換をはかった。同17年に、戸長が民選から官撰となったのもその一例といえよう。そのころ、すでに堺県は大阪府に編入されていたのである。

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大和の自由民権運動

・国民の声を国会に

 明治7年1月、維新のときに活躍した板垣退助らは、国民の声を政治に反映させるために、選挙によって選ばれた議会をつくるべきではないかとの建白書を政府に提出した。明治政府は鹿児島藩と山口藩(旧萩藩)の出身者ら少数の人びとが権力を独りじめにしている専制政府だと批判したのである。板垣らの意見が新聞に掲載されると、たちまち大きな反響を呼びおこし、議会の開設時期やその方法についてはげしい論争が繰り広げられることになった。しかし、政府はまだ議会を開くのは早過ぎると考えていたので、板垣たちの意見をとりあげなかった。そこで、板垣たちの仲間はそれぞれ郷里に帰り、本格的に議会の開設を要求する運動に乗り出した。板垣は土佐で立志社という政治結社をつくり、全国各地の同じような考え方を持つ人びとに対して、言論による反政府運動をおこすことを呼びかけたのである。こうした運動を自由民権運動といい、はじめは新政府の方針に批判的な士族たちが中心になっていたが、やがて農民や都市の住民などさまざまな階層の人びとを巻きこんだ運動となった。

・民権意識のめざめ

 自由民権運動がはじまったころ、大和ではほとんどそれに加わる人はいなかった。わずかに宇智郡霊安寺村出身の樽井藤吉が、板垣たちと同じように議会の開設を政府に要求しているが、樽井の運動はおもに東京でおこなわれ、大和とはほとんど関係がなかった。大和での本格的な自由民権運動は、全国的な国会の開設請願運動とともにはじまったといってよいだろう。
 明治12年11月に、全国の自由民権運動の集会が大阪で開催され、国会の開設を政府に請願する運動をすすめることが決定された。この運動をすすめていくなかで、自由民権運動は全国的・国民的な規模の政治運動としての広がりを持ちはじめたのである。その影響を受けて大和にもようやく運動のいぶきが感じられるようになった。
 同年5月から11月にかけて、郡山や田原本では大阪からやってきた自由民権運動の活動家たちが、民権拡張を呼びかける演説会をしばしば開いている。演説会にはたくさんの人びとが集まって聞き入ったが、演説内容が反政府的なものだったので、警察から中止を命じられたり、開催が不許可になったりすることもたびたびであったという。しかし、それでもしだいに自由民権の思想は広がり、大和の人びとも民権意識に目ざめていったのである。

・民権運動の高まり

 明治13年も、引きつづいて演説会が各地で活発に開かれた。その結果、同年4月17日に国会期成同盟という団体が政府に提出した国会開設の願望書に、大和でも署名する人が現れた。また郡山周辺や吉野地方では、玄関に「国会願望者」という表札をかかげる人もあったという。
 翌14年になると、これまでの演説会の効果がようやく実りはじめたのか、大和の民権運動も飛躍的な発展を見るようになった。同年2月7日、大阪府の財政悪化を救うために堺県が大阪府に合併されると、堺県に編入されていた大和も大阪府に組みこまれた。
 しかし、この合併にともない大阪府会議員となった恒岡直史ら大和出身の人びとは、大阪と大和では風土や習慣など、いろいろ事情が違うため、大和の発展のためには大阪府から独立してふたたび「奈良県」をつくらなければならないと考えた。そして、政府に大和国の独立を認めさせるには大和国全体の団結と経済力の向上がなによりも大切であると、民権の拡大を主張する自由民権運動とのつながりを求めるようになった。
 さらにかれらは、民権運動の指導者たちを大和にまねいた。そして、民権思想の普及に尽力した各地の地主・富商らに、民権拡大こそが大和国の独立のために必要だとといた。同年7月24日には葛下郡高田村の専立寺で、地主らおよそ300人ほどを集めて大和全国自由懇親会という民権運動の集会を開催するところまでこぎ着けた。
 一方、それ以前の明治14年5月29日には、五條で桜井徳太郎・松本長平ら大和の民権運動の活動家たちが中心となって、五條や吉野地方の民権思想に関心を持つ人びとを集めて集会を開いている。この会は人間が生まれながらにして持つ権利を主張する天賦人権論にもとづいた会則をさだめるなど、大和国の自由民権運動のさきがけとなっていった。恒岡らはこうした積極的な民権運動グループともひとまず一致協力できる体制をつくることに成功したのである。

・運動の激化と変ぼう

 ところで自由民権運動は、明治14年7月に表面化した北海道開拓使庁の汚職事件をきっかけとして全国的に大きく前進していった。同年9月中旬には近畿自由党が、また10月29日には板垣退助を党首として日本最初の本格的な政党である自由党が結成された。政府もまた10年後に国会を開設することを約束し、さっそく憲法の制定や行政機構の改革の準備に取りかかるなど、汚職事件は自由民権運動の発展にとって大きなはずみとなったのである。
 大和でも11月から12月にかけて民権運動家による遊説が盛んにおこなわれ、その影響を受けて各地に民権運動の親睦会などがつくられ、運動は大きく盛りあがった。しかし、このころ政府がすすめた増税と財政の引き締め政策は、農産物の暴落をもたらし、農民の生活は非常に苦しくなった。農民たちは土地を手放してようやく税金を払うのだが、一方では少数の地主がその土地を買い集めていく。その結果、民権運動の内部には深刻な問題が広がってきた。つまり、地主や富商と中流以下の農民のあいだで、利害や運動方針をめぐる対立がはげしくなっていったのである。借金に苦しむ農民を中心にして結成された各地の「借金党」「困民党」などが、翌15年末ごろから借金の返済猶予や土地の返却を求めはじめると、自由民権運動は非常に過激なものとなった。
 大和でもこのころになると、はじめ自由党と結びついて民権運動にかかわってきた地主や富商の多くが自由党から離れていった。そして、そうした地主・富商を支持基盤にしていた大和出身の大阪府会議員らのグループも、同15年にはおだやかな運動をすすめる立憲改進党と結んで大和同盟党という政党を結成し、運動の方向をかれらの真の願いである奈良県再設置に絞りこんでいったのである。
 奈良県再設置運動にたずさわった今村勤三が同志の恒岡直史にあてた手紙のなかに書いているように、政府にその運動が「何党トカ何主義トカノ扇動ニ出タルモノ」と見られることは絶対に避けなければならなかった。こうして、大和の自由民権運動は、大和の人びとの願いである奈良県再設置運動の本格的な高まりとともに、地主や富商の支持を失い、その性格を大きく変えていった。

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