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特集  奈良県誕生物語

 [引用文献:奈良県発行 青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語− より抜粋


     吉野山 上の千本から蔵王堂を望む

序 章  青山四方にめぐれる国

第1章  夜明けを迎えて

     幕末の大和と天誅組の乱

     吹きすさぶ神仏分離の嵐

     動揺する大和の大名たち

     大和国から統一奈良県へ

第2章  文明開化のあしおと

第3章  堺県のもとで

第4章  苦闘の再設置運動

第5章  奈良県の誕生

終 章  それから100年


第1章  夜明けを迎えて

幕末の大和と天誅組の乱

・深まる動揺と不安

 
嘉永7年6月、近畿地方の中南部に大地震がおこり、大和の各地は大きな被害をこうむった。奈良町の町屋の1割ほどが倒れ数百人が死んだともいわれている。家を失った人びとは町はずれの野原や道ばたに小屋をつくって雨露をしのいだ。また、添上郡古市村では、村の東にある山の谷あいをせき止めてため池をつくっていたが、その堤がこの地震で切れ、流れ出た水によって人家が押し流され、多数の死者が出たという。
 地震への恐怖がまだ人びとの脳裏から消え去らないうち、今度はコレラが大流行した。安政5年の夏ごろ大阪ではやりだしたコレラは、またたく間に大和にも伝染し、猛威をふるったのである。人びとは神や仏にすがったり、効果もわからない怪しげな薬を服用してコレラからのがれようとした。しかし、そんなものが役に立つはずがなく、最盛期には田原本近くの墓地で1日に42回の葬式があったと伝えられている。コレラは翌6年の秋口になるとようやく衰えていったが、人びとの不安はますます広がっていった。

 こうしたきびしい現実の生活からのがれるため、神や仏に救いを求めようとする人々も現れた。幕末に大和でおこった天理教は、そうした不安にうちひしがれた人びとの心のよりどころのひとつになったのである。天理教は山辺郡庄屋敷村の主婦であった中山みきが天保9年に神の啓示を受けてはじめた宗教である。幕末になると、たびたびおこった飢饉や災害に苦しめられ、また物価の上昇によって生活の不安に心を悩ませる人びとの関心を集めるようになり、慶応3年には、京都の吉田神道家から「天輪王明神」の神号を伝授され、新しい神として認められるようになった。

・天誅組の旗あげ

 
このころ、古くから大和の玄関口としてひらけていた五條の町で封建社会をゆるがす大事件がおこった。天誅組の乱という。江戸幕府を武力で倒そうとした幕末最初の反乱として知られている。天誅組の乱がおきたのは文久3年8月のことである。嘉永7年3月、アメリカ使節ペリーの2度目の浦賀来航により日米和親条約を結び、鎖国をといてからすでに9年の歳月が流れていた。この間、欧米諸国との貿易がはじまり、おもに生糸・絹織物・茶などが輸出され、外国から安い綿糸や綿織物が大量に輸入されると、江戸時代につくられていた流通のしくみがこわされ、はげしく物価が上がっていった。社会も経済も根本から動揺し、日本はその存立さえも危うい状態になっていたのである。
 こうした情勢を乗りきるために、幕府と朝廷・有力大名の連合政府をつくろうとする公武合体派が現れる一方、あくまでも外国勢力を追い払い天皇中心の統一政府をめざそうとする尊王攘夷派も現れ、両派はたがいに勢力の拡大をはかって争った。文久3年8月、京都では尊攘派勢力が主導権をにぎり、13日には公武合体論者である孝明天皇にせまり、攘夷を祈るため大和に行幸するという詔を出させた。尊攘派志士のなかでも急進派といわれる土佐国出身の吉村寅太郎らは、これを倒幕の行動をおこす絶好の機会と考え、同志の公家中山忠光をかついで孝明天皇を大和に迎え、全国の反幕府勢力を結集しょうとくわだてたのである。この中山らの一派がのちに天誅組と呼ばれることとなる。

・ねらわれた代官所

 
文久3年8月14日、京都をたった中山忠光ら一行は淀川をくだり、船で堺へ向かい、上陸ののち河内国の豪農水郡家に立ち寄り、水郡善之祐らこの地の農民を勢力に加え、金剛山頂の南の千早峠を越えて五條への道を進んだ。五條には寛政7年以来、幕府が南大和の吉野・宇智・宇陀・葛上・高市5群405ヶ村を支配する代官所をもうけていた。天誅組はこの幕府の拠点を襲い、倒幕ののろしをあげようとしたのである。
 8月17日、宇智郡岡村の八幡社で勢ぞろいしたのち、代官所を襲い、代官の鈴木源内らを殺害し、本陣を桜井寺にさだめ、その門前に「御政府」の表札をかかげた。この数時間のうちにおこったできごとは五條の人びとを驚かせた。「以前より騒動や一揆のことは知っていましたが、それはうわさに聞くばかりで、このたびのことは目の前でおこり、まことに恐ろしいことです」と、宇智郡新町村の庄屋はしるしている。

 翌18日、天誅組は近くの村役人を呼び寄せ、五條代官所支配下の村むらは天皇の支配するところとなったとつげ、祝儀として年貢を半分に減らすことを布告した。また宇智郡三在村にあった旗本小堀大学領の代官が日ごろから農民たちの不満をかっていたのを聞きつけ、代官宅を襲い家財を没収、宇智郡中村の庄屋には銀10貫目を出させて村民に分配するなど、民心の動揺を抑えようとした。さらに天誅組に加われば苗字・帯刀を許し、下級武士の待遇をあたえようと民衆のあいだに参加者をつのった。

 このころには事件を聞きつけ、大和国内の尊王攘夷に心を寄せる人たちが集まりはじめた。五條の医師乾十郎、法隆寺の近くに住んでいた国学者伴林光平や平岡鳩平、宇陀郡松山町の生まれで砲術家の林豹吉郎らである。こうして、民衆の支持を得ることに努めた天誅組は、大和国内の尊攘派の力も得て、乱の前途に楽観的な見通しを持つようになった。

・8月18日の政変

 ところが文久3年8月18日、京都では予期しなかった事態が発生していた。鹿児島藩や会津藩などの公武合体派が朝廷から尊王攘夷派を追い出すクーデター(8月18日の政変)を成功させたのである。ここに情勢は一変、孝明天皇の大和行幸は中止となった。

 21日、政変の知らせを受けた天誅組は、かねてから尊攘派と連絡のあった十津川郷士らをたより、天辻峠に本陣を移した。このとき、丹生川上神社の神官橋本若狭も同志に加わっている。この橋本の協力もあり、伴林光平の檄文をたずさえ十津川郷士のあいだに兵をつのった。しかし、あまりに急なことであり、十津川郷内での意見の対立もあって、思うように兵は集まらなかった。ようやく野崎主計ら1,200人あまりが参集したが、なかには威圧で狩り出された者もいて、かならずしもまとまりのあるものではなく、実戦の経験にも乏しかった。

 25日、勢力を増した天誅組は五條に戻り、翌26日夜明けから高取城を攻めたが大砲を撃ちかけられて失敗し、同夜ふたたび焼き討ちをねらったが、これもしりぞけられた。

・敗 走

一方、文久3年8月21日から24日にかけて和歌山・彦根・津・郡山および大和国内の各藩は幕府と朝廷の命を受け、天誅組を包囲しはじめていた。高取城攻めに失敗した天誅組は吉野山中に陣を移し、大日川・栃原・広橋村などで戦い、9月9日には下市にあった彦根藩陣営を襲って火を放った。しかし、追討軍の攻撃の前にしだいに戦力を失い、11日には河内から参加した水郡善之祐らの一派が、16日には十津川郷士らが天誅組から離れていった。すでに木之本・尾鷲に向かう南への道は、和歌山藩の手でふさがれていた。

 活路を求めた天誅組は十津川郷からけわしい山を越えて北山郷に入り、川上郷を経て小川郷の鷲家口村にたどりついた。この方面では和歌山藩がその飛び地の鷲家村に、彦根藩が鷲家口村で待ちかまえていた。9月24日から27日にかけてはげしい戦いがつづき、吉村寅太郎らおもだった者はここで戦死した。伴林光平・乾十郎・橋本若狭ら逃げのびた者も日を追ってとらえられ、京都の六角獄舎に送られて元治元年にあいついで処刑された。長州まで落ちのびた中山忠光も、同年その地で暗殺されている。

・乱のあとに

 こうして約40日にわたる天誅組の乱は終わったが、戦乱に巻きこまれた村むらでは物資や人足の徴発に苦しみ、乱後「8月の騒動で作物の取り入れもできず、副業も失ってしまいました」と、その困窮を訴えている。五條代官所支配下の村むらはいったん高取藩預かり(十津川郷をのぞく)となったが、文久4年1月、幕府が代官所の再設置を決めると、支配下にあった村むらは代官によるきびしい年貢米の取り立てや、その売却をまかされた商人らの不正を理由に高取藩支配の存続を望み運動をつづけた。

 こうした農民の動向に乱の影響が大きかったことを知ることができる。乱の鎮圧にあたった各藩の態度も注目される。この時期どこの藩でも尊王と佐幕のあいだを動揺しており、たとえ幕府の命令であるとはいえ、尊王思想をかかげた天誅組の追討に簡単には動くことができなかった。文久3年8月26日に出動した郡山藩勢が吉野郡下渕村に着いたのは4日後の30日のことで、このため幕府と朝廷は9月4日にすみやかに鎮圧するようにうながし、新たに狭山・尼崎・岸和田の各藩に追討を命じなければならなかったほどである。将軍の命令のもと、各藩が一糸乱れない行動をとるといったことは、大和でもすでに過去の話となっていた。

・立ちあがる民衆

 幕末になると全国で百姓一揆や打ちこわしが大流行した。大和でも慶応2年5月には、富雄の霊山寺近くの旗本角南氏領の村で大規模な百姓一揆がおこり、代官所や庄屋などの村役人の家が襲われた。また、奈良や郡山・今井・高田などの町場ではたびたび打ちこわしがおこり、米屋や豊かな商人が被害を受けている。各地の商人たちは打ちこわしのうわさにおびえていたが、このころ御所の町に変わったできごとがあった。4月27日に町のあちこちに、15歳から60歳までの男子は、鐘の音を合図に鴨都馬波社の境内に集まるようにという張り紙が出されたのである。打ちこわしの誘いだったのだろう。この張り紙をみた商人たちは、値下げをして打ちこわしからのがれようとしたらしい。これは、犠牲者を出さずに安い米を手に入れようとした庶民の知恵だったのだろうか。 

・ええじゃないか

 こうして幕末の混乱が深まっていくなかで、人びとは居ても立ってもいられないほどの不安におののく一方、まもなく世のなかが大きく変わるに違いないという期待を持ちながら生活を送っていた。そんななかで、不思議なできごとがおこった。慶応3年の夏ごろ、各地でいろいろな神社や寺院のお札が降りはじめたのである。しかも、お札が降った場所では老若男女が集まり、奇妙な姿をして、「ええじゃないか、ええじゃないか」と歌いながら踊り歩くという騒ぎになった。幕末の世のなかに大変な混乱を巻き起こし、幕府が滅ぶ原因のひとつになった「ええじゃないか」騒動である。8月のなかごろに東海地方ではじまったこの騒動は、またたく間に東は信州から江戸・横浜あたりまで、西は中国から四国地方にまで広がっていった。そして、8月の下旬には早くも京都に飛び火し、9月の下旬になると大和国もいよいよその騒動に巻きこまれることになった。  

・大和では

 慶応3年9月下旬頃から、大和国にも実にいろいろな品物が降った。おもなものは伊勢神宮や春日神社・大神神社などのお札だったが、このほかにも奈良の町では仏像やお金などが、三輪では小判が、葛下郡新庄村付近では金属でできた御幣や仏像が、下市では木の仏像が降ったと伝えられている。そして、翌年の正月ごろまでの4か月のあいだ、いたるところに驚くほどたくさんの品々が降りつづいたのである。お札などが降ったところでは、ほかの地方での「ええじゃないか」騒動のようすを知っていたためか、知らないふりをしておくことはできなかった。どの家でも神棚をつくって祭り、酒や果物をそなえ、親類や隣近所の人をまねいて披露した。

 10月16日に伊勢神宮のお札が降った奈良町の米屋藤七の家では、さっそく店先に神棚をこしらえてお札を祭ったところ、美しく着飾った人びとが酒や鏡餅・果物などを持って、お参りに集まってきた。藤七の家でも朝早くから餅をつき、お参りにきた人びとにお神酒などをふるまったので大変にぎやかなことになったという。

 また、10月26日に庭先にお札が降った葛下郡高田村の村島屋長三郎の家でも、26日から3日のあいだ店先にお札を祭り、鏡餅をそなえ、お参りに集まった人びとを接待している。お札などが降りつづくという不思議なできごとのなかで、大和国にも「ええじゃないか」の騒動が広がった。お札の参拝に集まった人びとは、酒などをふるまわれて陽気になり、やがてだれからともなく歌い、踊りはじめるようになった。高田では村のなかを、男は女の、女は男の姿をして、「ヨイヤナイカ、ヨイヤナイカ、ヤブレタラマタハレ、ヨイヤナイカ」などと歌いながら踊り歩いた。

 また、10月15日に伊勢神宮のお札が降った平群郡笠目村でも、村びとがほこらをつくってお札を祭り、卑わいな文句をはさみながら大声をはりあげて、「ええじゃないか、ええじゃないか」と歌い、両手に御幣と提灯を持って、数日のあいだ村じゅうを踊り歩いたという。

・騒動のさなかに

 大変な騒ぎになった「ええじゃないか」は、江戸時代にほぼ60年ごとに流行したといわれる伊勢神宮への「おかげ参り」とよく似ている。しかし、同時にこの騒動は天保飢饉から幕末まで何度となく繰り返されてきた飢饉や天災・流行病に悩まされた庶民の不満が、幕府の権威が失われたことをきっかけにして、いっきょに爆発したものだったのではないだろうか。この騒動をしずめるため、幕府もたびたび禁止令を出しているが、ついにその目的を達することができないまま崩壊していったのである。

 「ええじゃないか」騒動のさなかの慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜は突然政権を朝廷に返上し、264年間つづいた幕府もついにその幕を閉じることになった。 

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吹きすさぶ神仏分離の嵐

・日本人の不思議な信仰

 江戸時代までの日本人の信仰は、神社と寺院を同じ場所に建てたり、神も仏もあわせて信仰するなどという不思議なものだった。この習慣を神仏習合といい、仏教が広がっていった奈良時代の終わりから平安時代のはじめにかけてはじまったものだが、西欧の国ぐにではとうてい考えることのできない信仰の姿だった。明治新政府はこうした古い信仰を、思いきって新しいものに変えてしまおうと考えた。

・神仏を切りはなすために

 慶応4年3月13日、江戸城を明けわたすために、西郷隆盛と勝海舟とが話しあっていたその当日、古代の神祇官をふたたびつくることと、全国の神社と神官とを神祇官の管理のもとに置くことをさだめた法令が新政府から出された。神社と寺院、神道と仏教を切りはなし、新しい信仰の形をつくっていこうとしたのである。しかし、神仏を分離して、神道を国民が一致して信仰できる宗教にしたいという新政府の方針は、大変な事態をまねくことになった。

 3月17日に、長いあいだ神社を支配してきた別当・社僧に僧侶をやめるよう命じた法令が、同月28日には神社から仏像や仏教的な行事に使う道具を捨てるように命じた法令が出された。こうした法令が全国各地の神社や寺院に伝えられると、これまで社僧たちに神社の支配権を奪われ、頭をおさえつけられてきた神官たちは踊りあがって喜んだ。そしてとくに日本は神国だという思想の影響を受けていた神官のなかには、実力に訴えてでもただちに神社の境内から仏教的なものを取り払おうとするものが現れた。たとえば、4月1日には比叡山延暦寺の鎮守社である近江の日吉神社に、京都御所の警備のために全国から京都に集まってきていた神官たちが押しかけ、境内の仏像や仏具・経巻などを焼き払うという事件があったが、同じような事件が全国各地でおこっていたのである。

 神仏分離を命じた法令をきっかけに、一部の神官たちが神社の境内から仏教的なものを取りのぞくために、実力行使にまで訴えるという考えもしなかった方向へすすんでいったことに驚いた新政府は、4月10日、神官たちに乱暴なふるまいをやめるようにとの命令をあわてて出したが、もはや手おくれだった。   

・荒れはてた興福寺

 古代から神社や寺院の勢力が非常に強かった大和国では、神仏分離も言葉には言いつくせないほどはげしいものになった。興福寺では、すでに慶応4年3月下旬には寺を離れようとする僧侶もいた。そして、4月13日になると、一乗院と大乗院の両門跡をはじめ、ほとんどの僧侶が春日神社の神官になることを願い出て認められた。そのため興福寺は西大寺と唐招提寺に管理をまかされることになった。

 僧侶がいなくなった興福寺は、またたく間に荒れはててしまった。たくさんの塔頭や寺院の建物はみる影もなくなり、多くの仏像・仏具が処分され、使われている金銀箔をめあてに経巻類が焼き払われたといわれる。そして、明治4年1月には、もとの一乗院の建物が奈良県庁に転用されるようになるとともに、かたむいた塀などが取りこわされ、同年9月、ついに廃寺になってしまった。

 今、奈良のシンボルとして興福寺境内にそびえ立つ五重塔が、わずかなお金で売り払われたというのもこのときのことである。買い取った人は火をつけて、金具類を手に入れようとしたが、類焼を心配する奈良町の人びとの反対で中止になったともいわれている。

・まぼろしの寺・永久寺

 天理教の本部から2キロメートルほど東南に入った山のなかに、神仏分離のころまで永久寺という大きな寺院があった。平安時代の終わりごろ、当時の天皇の命令によって建てられたという由緒深い寺院である。

 この寺では、慶応4年9月に僧侶全員が寺を離れ、隣の石上神宮の神官になってしまった。だれも住む人がいなくなった永久寺の建物は荒れるにまかされ、仏像や経巻などが勝手に売り払われた。そして、明治8年ごろまでに建物は完全に取りこわされ、そんな大寺院がそこにあったことさえ忘れ去られるようになってしまった。今ではわずかに、池のそばに建てられた石碑が、かつてその場所に永久寺という大寺院があったことを伝えるだけになっている。

・蔵王権現の受難

 蔵王権現の信仰や山伏で有名な吉野山の金峰山寺では、新政府から蔵王権現は仏ではなく神だと決めつけられ、寺を神社にあらため、僧侶全員が神官になることを命じられた。金峰山寺では、民衆のあいだに蔵王権現への根強い信仰があることを知っていた五條県からの助けを受け、蔵王権現は神ではなくもともと仏だとしてその命令にはげしく抵抗した。

 しかし、新政府があくまでも金峰山寺を神社にすることを強行したので、明治7年6月、ついに山上にある蔵王堂を金峰神社の奥宮、ふもとの蔵王堂を口宮と呼ぶことにし、金峰山寺を金峰神社とあらためた。そして、蔵王堂の建物はそのままにして、なかにあった仏像・仏具・経巻を他の場所に移し、吉野山の神仏分離が完成することになった。

・路傍の石仏までも

 町や村にあった神社や寺院もまた神仏分離によって大きな影響を受けた。住職や檀家のない寺院とか、荒れはてて維持することがむずかしい寺院などは明治5年ごろまでにほとんどが廃寺となっている。そして、廃寺の境内地は政府に没収され、入札などの方法によって個人や村に払いさげられて、小学校の敷地などになった。

 これよりさき、明治4年には神社の神体調査もおこなわれ、神像や仏像は取りのぞかれ、鏡や御幣に置きかえられた。さらに、村はずれや道ばたに置かれていた地蔵尊などの石仏が1か所に集められ、そのあき地は政府に没収されたうえ払いさげなどの処分を受けたのである。

・吹きぬけた嵐のあとに

 このようにして、慶応4年3月13日の布告にはじまった神仏分離の嵐は、最初のころの大社寺の処分から村はずれや道ばたの石地蔵の処分に至るまで、およそ10年におよんだのである。日本の宗教改革となったこの政策は、神道を国教としていくために、避けて通ることができないものだった。しかし、このことによって奈良時代以来千年のあいだつづいてきた宗教構造は決定的に変わってしまった。

・よみがえる古社寺

 
しかし、神仏分離の嵐がおさまり、宗教行政がしだいに落ちつきを取り戻していくにつれ、いったんは廃寺になった寺院の復興が計画されはじめた。明治13年12月には、社寺の創設や復旧などの許認可の事務が府県にまかされるようになると、大和でもいくつかの古社寺が復興することになった。奈良では興福会という団体がつくられ、その運動によって翌14年には興福寺の再興が許可された。

 また、民衆の信仰生活と深くつながっていた吉野山の蔵王権現を、国家神道信仰のなかに組みこむことはとうてい不可能なことであった。そのため、同19年5月になって、もとの寺に戻ることになり、蔵王権現はよみがえった。一方、同18年には内務省から神仏分離の被害を受けた社寺に対して多額の保存金が出されるなど、この時期に大和の古社寺の復旧は急速にすすみ、しだいにかつてのおもかげを取り戻していったのである。

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動揺する大和の大名たち

・うたがわれる郡山藩

 大和国ではもっとも大きな藩であり、京都や大阪に近い重要な場所にあった郡山藩柳沢氏は、藩祖の柳沢吉保のときから将軍に忠誠をつくした。吉安は将軍家に手向かうものは自分の子孫であっても子孫とは思わないというほどの家訓さえ残している。

 そのためもあってか、幕末の政治の動きがせっぱつまってきても、ぎりぎりまで幕府側につくか朝廷側につくか、態度を決めかねていた。したがって、自藩の領地でありながら、大和と大阪を結ぶ街道の要所である暗峠の警備さえ他の藩にまかされるなど、朝廷側からその動きが強く警戒されていた。

 そうはいっても、将軍が大政を奉還し、王政復古の号令がくだって新政府が生まれると、いつまでもあいまいな態度をとっていることはできなくなった。新政府から幕府方の藩とみられて、攻め滅ぼされてしまう危険があったためである。慶応4年1月になってようやく、大阪城に立てこもっている徳川慶喜を背後からけん制するため、当時高野山で活動していた侍従鷲尾隆聚のもとに使者を送り、その指示を受けて行動したいと申し入れた。はっきりと新政府側につくことを決めたわけである。

 その後は新政府から京都周辺の警備を命じられたり、東北地方の旧幕府軍の平定のためにも出兵するなど、新しい政治の動きに乗り遅れずにすんだ。 

・高取藩 勤王方へ

 高取藩の植村氏は、徳川家が三河国の土豪だったころからつきしたがい、老中格になったこともある譜代の大名家であった。また、文久3年におこった天誅組の乱のときには高取城下で迎え撃って撃退するなど大活躍し、乱が終わったのちには一時幕府領の管理をまかされたように、幕府の信頼が厚かった。

 しかし、尊王攘夷運動が盛んになってくると、藩で召しかかえていた八木の儒学者谷三山の影響を受けて、大和国の各藩のなかでは、最も早く朝廷側につくことを決めたようである。王政復古令が出されるとすぐに家老を京都に派遣し、国もとの藩兵を京都の警備に送りこんだ。そのため今度は新政府の信頼が厚くなり、慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いのときには京都御所の警備や市中の巡視を命じられるほどだった。その後も大和国内にあった旧幕府領の民政をまかされるなど、揺れ動く幕末の政局をたくみに乗りきったのである。

・悲劇の柳生藩

 テレビや映画によく登場する柳生但馬守宗矩や柳生十兵衛など、徳川将軍の剣術指南役として有名な柳生氏は、代々の藩主が参勤交代をしない大名だった。そのため、幕末のぎりぎりまで江戸を離れることができず、幕府の指示にしたがって江戸周辺の警備などにあたっていた。しかし、王政復古令が出されて各藩主が京都によび集められるようになると、当時の藩主柳生俊益も江戸の藩邸にいた家臣をつれて柳生に帰り、京都に出仕することになった。

 そうなると京都に近く、政治の動きに敏感な柳生にいた家臣と、幕府への敬愛の気持ちが強い江戸の藩邸にいた家臣とのあいだに、新政府につくか旧幕府につくかで意見が対立するようになった。そして、慶応4年2月になってついに両者のあいだに流血事件がおこった。江戸から帰国した佐幕派の家臣たちがとらえられ、拷問などを受けて9人もの犠牲者を出した事件であるが、佐幕派が使っていた合い言葉をとって今では紫縮緬事件と呼ばれている。

 犠牲になった9人の藩士は、今も柳生にそびえ立つ十兵衛杉のかたわらに眠っている。柳生を訪れた人びとは、苔むした墓石を見て、幕末にこの藩でおこった悲しいできごとをなまなましく思い出すことだろう。

・右往左往する大和の小藩

 他の大和国内の藩は、ほとんどが1万石あまりの小さな藩であったため、そろって立場をはっきりとさせることができなかった。軍事力も弱く、うかつに態度を明らかにすると攻め滅ぼされる心配があったためである。小泉藩片桐氏や柳本藩・芝村藩の両織田氏では、参勤交代の時期がきているのに幕府の命令で帰国することができず、そのまま江戸周辺の警備にあたっていた。そのため、幕末の揺れ動く政局のなかで郡山藩と同じようにあいまいな態度を取りつづけなければならなかった。

 しかし、王政復古令が出されるとようやくその立場をはっきりとさせることができるようになり、急いで家臣を新政府のもとに派遣して忠誠をつくすことを誓っている。また、今の御所市にあった櫛羅藩の永井氏はこのころ大阪城の警備にあたっていたため、政治の動きはよく知っていたが、わずか1万石の小さな藩であるためうかつな行動をとることはできなかった。そのため大和国の他の小藩と同じく、王政復古令が出されるぎりぎりまで朝廷側につくことはできなかった。

 大和の各藩が見せた幕末から明治初年のこうしたあいまいな態度は、有力な大名がいなかったこととあわせて、新政府のもとで奈良県の立場を大変弱いものにした。このことが明治9年には堺県に、同14年には大阪府に合併される遠因をつくったのではないだろうか。

・旗本のゆくえ

 大和に所領を持ち陣屋をかまえた旗本も多い。加藤清正、福島正則らとともに活躍した賤ヶ岳の七本槍のひとりとして有名な平野長泰の子孫は十市郡田原本村に、伏見奉行水野忠貞は忍海郡西辻村に、もと新庄藩主桑山一 の弟一慶は所領を分知されて葛下郡松塚村に、松平信重は平群郡辻村にといったように維新時51家を数えることができる。

 このうち高市郡池尻村に陣屋をかまえていた神保弾正忠は、奥羽越列藩同盟に加わり新政府に抵抗して改易された。また、江戸を追われて松塚村に帰った桑山修理はしばらく村内で寺子屋の師匠をしていたが、まもなくわずかな金を村びとから借りて村を離れたし、十市郡十市村に陣屋を持っていた村越三十郎は村に帰ることができず近在の神主となり、西辻村に帰村できた水野国之助はここで自殺している。明治初年の混乱のなかで陣屋に帰った旗本たちの多くも、大和に落ちつくことはなかった。

・朝廷側に立つ十津川郷

 十津川郷は南北朝の動乱のときに後醍醐天皇の南朝に忠誠をつくした。また、江戸時代はじめには大阪の陣に加わり、吉野の北山郷でおこった一揆を鎮圧した功績によって、幕府から年貢免除のあつかいを受けるようになったという由緒を持っている。そのため、尊皇攘夷運動には大変な関心を持っていたが、朝廷につくか幕府につくかで郷内の意見がわかれた。しかし、文久3年8月には朝廷側につくことになり、京都御所の警備をまかされることになった。そののち、鳥羽・伏見の戦いからは天皇の親兵隊に加わって越後国長岡から東北地方にまで遠征し、その功績によって新政府から5,000石をあたえられている。

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大和国から統一奈良県へ

・赤いブランケット

 鳥羽・伏見の戦いから江戸開城までのめまぐるしい動きを、大和の人びとはどのようにながめたのであろうか。慶応4年1月3日、旧幕府軍と新政府軍と京都南郊の鳥羽・伏見で戦い破れた。戊辰戦争のはじまりである。大阪城にいた徳川慶喜をはじめ旧幕府のおもだった人びとは敗北を知り、ひそかに船に乗って江戸へ逃亡していった。そのことを知らされた城の守備兵らは、城を捨てて落武者となり、鳥羽・伏見の敗残兵とともに河内から峠を越えて大和に入りこみ、伊賀・伊勢へといっせいに退却していった。

 このころ、江戸から大阪へ幕府が派遣した騎兵隊がさやをはずした槍をひっさげて奈良町を通過するので、決して驚かないようにとの通達が奈良の町民に出されている。実はこの知らせが町民の耳に届いたころには、騎兵隊は奈良の町をすでに通過し砂茶屋付近にいたが、そこから引き返し、山城から伊賀方面に逃走していった。そのときかれらがまとっていた赤いブランケットで、奈良町三条通りは真っ赤に見えたという古老の話が伝わっている。このころになると、奈良の町民もようやく情勢を知るようになっていた。不安におののく商人のなかには店をたたむ者も出たから、日用雑貨を求めた町民たちは大変困ったらしい。そのため、奈良町の町代は、みんなしっかり家業にいそしむようにと、わざわざ命じなければならなかった。

 1月8日、十津川郷出身の新政府の役人沼田龍らが京都在住の十津川郷士をひきいて奈良にやってきた。翌日、興福寺は郷士らに部屋を貸し、また近くの旅館も兵に部屋をあてがい「十津川下宿」という看板をかかげたという。さらに11日には、高野山から侍従鷲尾隆聚の使いが奈良奉行小俣慶徳のもとに来て、「このたび、幕府方の兵が伏見へやってきた。ようすがおかしいので、官軍を送ったところ戦争となった。かれらが朝廷に敵対したことは明らかである。おまえたちは、勤王につとめるように」と伝えた。新政府側は着々と手を打ちつつあったのである。

 こうしたなかで、大和の平定のため派遣されたのが新政府の参謀烏丸光徳である。16日、京都から鹿児島藩兵をしたがえて奈良におもむいた烏丸は、小俣を奈良大豆山町の崇徳寺に軟禁し、興福寺に対しては、春日神社領や旧奈良奉行所管内の事務を代行するように命じた。その後、かれはさらに進んで五條に入り、代官の支配していた旧幕府領の村むらをやすやすと手に入れた。

・大和をおさめるために

 こうして、大和の平定にひとまず成功した新政府は慶応4年1月21日、奈良に大和鎮台をもうけ、その長官に公家の久我通久を任命した。しかし、大和鎮台は久我の着任をみないまま2月1日には大和国鎮撫総督府と改称された。ただし、この鎮台や鎮撫総督府というのは、行政・司法のいずれも担当した民政機関である。したがって、のちの廃藩置県の直前に置かれた鎮台とは性格を異にするものであった。ところで、奈良に鎮台が置かれたのち、大阪や兵庫にも同じく鎮台がもうけられたが、それらはまもなく同じ性格を持ったまま裁判所と名前をかえた。そして、2月から4月にかけて、長崎や横浜、函館などに裁判所がつくられたのだが、どういうわけか、大和だけは大和国鎮撫総督府の名称がそのまま残された。

 2月7日、久我らの一行は大砲などの近代的な火器を持つ熊本藩兵141人、名古屋藩兵23人および十津川郷士らに守られて奈良に到着した。本陣を興福寺の摩尼珠院に置き、隣の妙徳院・仏地院を接収してしばらくのあいだ分宿することになった。そして、さきに烏丸光徳が興福寺にゆだねていた春日神社領や旧奈良奉行所管内の管理事務をとくと同時に、軟禁していた小俣景徳とその家族を郡山藩に、その家来を高取藩に預けて監視をつづけたのである。この大和国鎮撫総督府は、一般に「鎮撫御総督御用所」と呼ばれたらしい。その御用所が担当したのは、大和国内の奈良奉行所や幕府代官の旧支配地に限られていた。

 やがて摩尼珠院は手ぜまであるということで、一行は旧奈良奉行所の建物に移った。この間、御用所は窮乏のいちじるしい十津川郷に対し1,500両を援助したり、旧奈良奉行所保管の籾米500石を奈良の窮民に分けあたえるなど混乱の収拾に活躍した。また、4月に平群郡のうち生駒谷11か村の農民たちが松平領の矢野代官所を襲った一揆では、その首謀者をとらえて鎮圧している。さらに、吉野郡賀名生郷和田村の堀孫太郎の先祖が後村上天皇につかえ、その地が南朝の皇居であった由緒などを聞き出して、当分のあいだ租税を軽減するなど、天皇の威光のもとに善政をほどこした。5月4日、総督をとかれた久我は、やがて東北地方の戦火をしずめるために出撃していった。

・「南都県」か「奈良県」か

 慶応4年5月19日、大和国鎮撫総督府をあらためて奈良県が置かれることになり、同総督府の参謀であった春日仲襄が知県事に任じられた。もっとも当初は「南都県」という名前も考えられていたらしい。政府は、旗本領や社寺領を府や県で管理するようにと命じたため、大和でも神保氏などの旗本領や興福寺・多武峰・春日神社領などが奈良県に編入されたのである。ただこの段階での奈良県は、藩領や十津川郷をのぞくもので、したがって飛び飛びの町村の総称であった。

 春日仲襄は久我家につかえ、維新後は主人の久我通久にしたがい大和国鎮撫総督府の参謀となっていた。かれは6月5日に京都を出発し、7日に着任している。ところで、この「県」というのは閏4月21日発布された政体書にもとづき、それまでの裁判所などをあらためて「府」とともに置いたものである。府には知府事、県には知県事などを置き、しだいに民政をつかさどる機構や人員を整えていった。この奈良県の成立前後、5月2日には大阪府、同4日には長崎県が、さらに同23日兵庫県・飛騨県、同29日越後府、6月9日三河県、同17日神奈川県、同22日堺県などの成立がつづく。

・「奈良府」そしてまた「奈良県」

 
慶応4年7月29日、奈良県は「奈良府」と改称され、知府事に園池公静が任じられた。かれは京都の公家出身である。しかし、その奈良府も明治2年7月17日にはふたたび「奈良県」と称することになった。もっとも、「奈良府」あるいは「奈良県」といっても、この時期でもまだその管轄区域は大和国のうち藩領をのぞく地域に限られていた。
 この間、奈良府は管内で親孝行であった者や主人思いの奉公人など60余人、あるいは70歳以上の高齢者に扶持をあたえたりした。また前の年は不作であったから、その年どこよりも上納の早かった葛下郡新庄村や、窮民に救助米を出した人をほめたたえたりするなど、新政府の方策に反対運動がおこらないよう民心の掌握に努めている。翌3年2月3日、太政官布告で役所は府・藩・県庁と呼ぶことになり、同年8月20日、園池にかわり鹿児島藩出身の海江田信義が知県事に命じられ、9月14日に着任した。今までほとんど京都出身の公家らが長官に任じられていたが、ここにはじめて藩士が選ばれたのである。

 さて、取りあつかう事務の量がしだいにふえるにつれ、県庁は、これまでの旧奈良奉行所の建物ではどうしても手ぜまに感じられるようになった。そのうえ雨もりもひどく、修理も行き届きにくくなったので、同4年1月13日、旧興福寺内の一乗院を借用し移転した。しかし、この移転は新政府の承諾を得たうえでのことではなかった。そのため民部省は「伺いもなくひそかに移転したのは政府を軽んじている証拠である」として、海江田に謹慎を命じている。要するに移転の手続きがまずかったのである。謹慎がとかれたのは、6月14日のことであった。なお、新政府が正式に移転を認めたのは2月8日である。

・五條県の成立

 明治3年2月27日に、奈良県のうち宇智・吉野両郡および堺県のうち錦部・石川両郡をあわせて五條県が成立した。知県事には、かつて、高野山で大和・河内の各藩に天皇への忠誠を求めて活動した鷲尾隆聚が任じられた。ついで、同年4月27日、堺県の管轄のもとに置かれていた高野山領の紀伊の国伊都・那賀両郡の村むらが五條県に編入されて、その範囲はさらに大きくなった。県庁には旧五條代官所があてられた。

 なお、今まで新政府の直接支配下に置かれていた十津川郷61か村は、明治2年3月6日、いったん奈良府に編入されていたが、郷内で反対運動がおこり、同年6月、軍務官の支配に切りかえられた。そして、同年11月15日には折立村に兵部省出張所がもうけられたが、翌3年5月19日、出張所は廃止され十津川郷は五條県に組みこまれた。翌4年8月4日には四条隆平が知県事となった。

・土地と人民はだれのもの

 戌辰戦争は明治2年5月18日に終わった。その約1か月後の6月17日から24日にかけて、各藩はその土地(版)と人民(籍)を新政府に返還した。これを版籍奉還という。幕府が倒れたあと、その支配地は政体書にもとづいて府や県に分けられていたが、全国の多くはいぜんとして大名たちの領地であった。そのため、新政府の支配がおよぶ範囲は狭く、したがってそこから上がる年貢も決して多くはなかった。

 これよりさき明治元年12月、政府はこれまでまちまちであった各藩の職制に基準をもうけて、藩の統制をすすめるとともに、翌2年1月になると鹿児島・萩藩出身の大久保利通・木戸孝允らが三条実美・岩倉具視らとはかって版籍奉還を具体的に計画したのである。まず両藩が提唱し、これに高知・佐賀両藩が賛同したうえで、「われわれの住む土地は天子(天皇)のものである。どうして私有することができようか。今、謹んでお返ししたい」という上表文をさしだした。他の大名たちも遅れてはならないと、これにならった。

 こうして政府は、すべての土地・人民を収めることに成功したが、そのさい、大名たちの反抗はまったくなかった。政府は旧藩主を知藩事に任命し、今までの収入の10分の1を家禄とさだめ、かれらを華族とした。また藩主につかえていた藩士らを士族と呼ぶことになったのである。奉還がスムーズにすすんだのは、幕末以来の借金、とりわけ軍事費の支出に追われて、藩の台所はまさに火の車だったからである。

・ついに統一奈良県の成立へ

 明治2年6月の版籍奉還ののち、藩政の改革に成功した藩もあったが、河内国狭山藩などのように、藩の財政が極端に悪化したために廃藩を願い出て、近くの府県に合併されたものも少なくない。この時期、府・藩・県が入りまじって存在し、その行政区域の広さもまちまちで、なかには飛び地もあり、ともすれば中央政府との連絡もとどこおりがちで、全国の統一は完全ではなかった。

 こうしたなかで、同4年2月、政府は天皇直属の軍隊をつくって東京を固め、さらに6月25日、政府の大改造を断行し、人事を大幅に刷新した。そして7月14日、政府は知藩事を集めて廃藩置県の詔を伝えた。全国の知藩事は職をとかれ、家禄と華族の身分は保障されたが、東京に在住することを命じられた。さきの版籍奉還が、形式的には各藩主から自主的に願い出るように仕向けたのに比べると、この廃藩置県は政府の命令であった。しかも、もはや各藩の抵抗はまったくなかった。新しく成立した県では、旧藩の重臣たちが、あらためて政府から任命されて県の仕事をした。ここに中央集権国家の基礎ができあがったのである。今まで政府の直接の支配地にもうけられていた府・県をあわせて、全国でいっきょに3府302県が生まれた。

 大和では、今までの奈良・五條の2県のほか、大和国内に城や陣屋を持つ8つの藩がそれぞれ県名をとなえることになった。すなわち、郡山・高取・小泉・芝村・柳本・田原本・櫛羅の各県である。飛び地の形で大和に領地を持っていた和歌山・津・久居・壬生・大多喜各藩の村むらは、それぞれ和歌山・津・久居・壬生・大多喜の各県に属することになった。逆に、郡山藩が近江・河内国内に、小泉藩が摂津・和泉・山城国内に、柳生藩が山城国内に、芝村藩が摂津国内に持っていた領地は、それぞれ郡山・小泉・柳生・芝村の各県に編入された。

 廃藩置県ののち、政府は3府302県を数えた府県の統廃合をどうするかについて協議しはじめた。とくに大蔵省は新たに生まれた県の財政事情を調べ、いっきょに4分の1以下に減らす案をつくり、1県の石高が10万石以上になることを標準に統合をすすめた。同4年11月、全国は北海道開拓使および3府72県にまとめられた。大和の場合は、奈良県ほか14県をあわせて、あらためて大和一国を管轄する奈良県が同年11月22日に誕生したのである。

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