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特集  奈良県誕生物語

 [引用文献:奈良県発行 青山四方にめぐれる国 −奈良県誕生物語− より抜粋]


     山辺の道 三輪山早春(茅原から)

序 章  青山四方にめぐれる国

第1章  夜明けを迎えて

第2章  文明開化のあしおと

第3章  堺県のもとで

第4章  苦闘の再設置運動

第5章  奈良県の誕生

終 章  それから100年


序章  青山四方にめぐれる国

青山四方にめぐれる国

 「青山四方にめぐれる国」大和。大和はうるわしの国である。奈良盆地を囲む四方の青山。北にはなだらかな平城(なら)山。東には伊賀・伊勢の国につづく大和高原。西には河内の国とをへだてる生駒・信貴・二上・葛城・金剛の連山。南には大峰・大台ヶ原に連なるけわしい山やま。
 四方の青山に降りそそいだ雨は奈良盆地に集まって大和川となり、大阪湾に流れこむ。吉野・大台ヶ原に源を持つ吉野川は支流を集めて紀の川となり紀伊水道に、また、十津川・北山川は合流して新宮川となって、太平洋にそそぎこむ。悠久の昔から、大和はまことに住みやすい土地であった。

花開く古代文化

 日本列島に稲作が入ってくると、この地に住みついた人びとは奈良盆地を開拓しながら、豊かな米作地帯をつくっていった。大陸から流れ込んだ高度な文化は大和の地で花開き、大和は政治・経済の中心となっていった。山の辺の道や佐保丘陵、馬見丘陵などに点在する巨大な古墳の群。飛鳥の地に造営されたいくつかの宮。中国にならって壮大な都城がつくられた藤原・平城の地。そして、それらの地に、飛鳥・白鳳・天平の輝かしい文化が生まれ育ったのである。

・ふるさと大和

 都が平安京に移り、貴族たちが大和の地を去ると、住む人もなくなった平城京は荒れはて、東大寺・興福寺・春日神社などいくつかの社寺だけが残されることになった。しかし、いったんはさびれた奈良の地も、まもなく社寺を中心によみがえり、ふたたび繁栄の時代を迎える。平安京に移った貴族たちは奈良への追慕の念を捨てきれず、古都奈良を故郷と呼び、奈良参りと称してたびたび大和の地を訪れた。
 また、鎌倉時代から室町時代にかけて庶民の間に聖徳太子信仰や中将姫信仰が盛んになると、法隆寺や當麻寺を訪れる人々もふえ、社寺の門前は以前にもまして栄えるようになっていった。

・社寺の王国中世大和

 都が京都に移ると、大和は興福寺・春日神社の支配するところとなった。その力の前に鎌倉・室町両幕府もついに守護を置くことはできなかったほどである後醍醐天皇らが行在所をかまえ、武家政権に対抗したために吉野が政治の舞台になったこともある。
 大和は興福寺・春日神社の荘園でしめられ、武家政権の力のおよばない社寺王国となった。そうした荘園のなかから富をたくわえ、自衛のために武装する人びとが現れはじめると、興福寺・春日神社はかれらを衆徒・国民と呼んで組織化するようになった。大和武士の誕生である。

 戦国時代になると大和武士たちは武力をたくわえ、たがいに相争って所領を広げようとした。没落するもの、繁栄するものが交錯し、戦乱は途絶えることがなかった。多くの大和武士が生まれ、そして滅亡していくなかで、ときには他国武士の支配を受けたこともあるが、やがて、織田信長の庇護のもとに頭角を現し、大和を統一したのが筒井氏である。

・環濠とため池のある風景

 一方、このころになると農民たちは戦乱から身を守るため一か所に移り住み、濠をめぐらした集落をつくった。環濠集落のはじまりである。また、奈良盆地の開拓がすすむと、稲作に必要な水が乏しくなったので少ない雨を有効に利用するため、ため池がつくられた。環濠とため池は、今なお奈良盆地に特有の景観をつくっている。

・海のない国大和

 大和には山あり、谷あり、川あり、高原あり、豊かな平野もある。ないのは海だけである。庶民にとって新鮮な海の魚はとても口にできるものではなかった。大阪の魚屋が奈良の人たちにいつも足1本を切った7本足のたこを売りつけていたが、奈良の人たちはついぞそのことに気づかなかったと井原西鶴が「世間胸算用」のなかで書いている。 吉野地方の名産の柿の葉ずしが、熊野灘でとれた鯖をひと塩して山越えで大和に運びこんだものを利用してつくった保存食だったように、海のない大和の人びとにとって魚とはいつも塩干物なのだった。

・大和の建て倒れ

 江戸時代の大和は大消費地の大阪や京都に近かったために、綿花や菜種・小豆などの商品作物が栽培された。また、三輪そうめんや吉野葛・宇陀紙・奈良晒・大和絣・吉野杉などの特産品もあり、それらは大阪や京都に運ばれ、大和に富をもたらした。

 大和の人びとはこうした豊かさを背景にして豪華な家づくりにはげんだ。大和棟の「うだち」を上げることを生涯の目標にして、倹約・勤勉・誠実な日々の生活を送ったのである。これが「大阪の食い倒れ」「京都の着倒れ」とならぶ「大和の建て倒れ」のいわれである。

・団結する大和の人びと

 さて、このような大和の人びとは、江戸時代の終わりごろから領主の支配の枠を越えて団結するようになっていった。大和川を通って大阪から運びこまれる肥料や、大和で生産する商品作物の値段など農民たちの利害が一致するとき、総代を決めて大和国をあげて幕府に訴え出たこともあった。国訴と呼ばれたものである。

 そのため、八木や田原本、初瀬などで一国集会と呼ばれる代表者の集会が持たれた。明治時代に大和が大阪府に合併されると、大和の人びとは奈良県の再設置を求めて粘りづよい闘いをつづけたが、そうした運動をおこすことができたのは、江戸時代の終わりごろ、すでにこのような大和一国の代表者会議が開かれていたという下地があったからであろう。

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